才能は怪物である・・・映画「響~HIBIKI~」を見てきました。

どうも、闇島です。

平手友梨奈さんが主演で話題になった映画「響~HIBIKI~」を見てきました。

この映画は、漫画が原作なのらしいですが原作は読んだことはありません。
そして、別段平手友梨奈さんが好きというわけでもないというか、この映画で初めて知りました。(アイドルだったんですね)

普段邦画を見ない自分がなんでこの映画に惹かれたのか。
「普通に振る舞ってるのに変人扱いされてしまう天才」の物語と感じたからです。

 

で、実際見てきた感想・・・

 

響は、正直「天才」というよりも「怪物」でした。
世間体とかいうタガが一切ありません。
自分の中の正しさに反するものには、容赦がありません。

友人にセクハラをする著名な作家の顔面に蹴りを入れるし、
作品を読まないで判断する天才気取りの作家にパイプ椅子攻撃するし、
思い悩んでる友人の作品をズバズバとオーバーキルで批評します。

ハッキリ言いすぎて「あいつ性格悪いよね」って言われるタイプです。

じゃあ、響は本当に性根が腐った悪党なのか・・・
響の中身はあまり描写されることはありませんが、響は友人のために戦う、自殺しようとしている人間を図らずしも救うという、彼女の中には確固たる正義がありました。

劇中にでてくる惰性で作家を続ける男や、スクープの為に未成年である響を追い回すカストリ雑誌の記者の方が私利私欲に塗れた「悪党」に思えます。

響はどこまで言っても「純粋」なのです。
有名になりたい、権威が欲しい、金がほしいという「欲望」に興味がありません。
ただただ面白い小説を読みたい、名作を書きたい。
そんな純粋な気持ちで作品と向き合ってる人なのです。

 

しかし、そんな人間は他者から見たら「異物」です。

人間は、常に他者と比較することをやめられません。
悟りを開くために修行しているお坊さんですら、最後の最後まで捨てきれないのが他者との比較だそうです。

そんな事柄から抜け出し、ただただ作品を追求する響は他人に理解されません。
いや、むしろ嫌味にすら思えます。

芥川賞と直木賞同時に受賞してもどうとも思ってません。
周りの友人は、嫉妬したり喜んだりしているのにです。

「へぇ、そう」

と響は一言で済ませます。
その姿に皆唖然とします。

 

異物を排除しようとする人間も現れます。

しかし、彼女は曲げません。
世間から暴力事件に対してバッシングが起こって謝罪を要求されても、「本人には謝ったのに一体誰に謝れというの?」といって謝罪会見を突っぱねます。
自分が思う正しさを優先し、社会的正義などお構いなしです。

 

「世間」という同調圧力の空気に彼女は負けません。
性格が悪い狂人だと言われようとも自分を貫き通します。
というか、意に介してません。

孤独であることをなんとも思っていないんです。

例え異物であるとはじき出されても、彼女はなんとも思わないでしょう。
ただ、彼女の巨大な才能を世間は放っておけないでしょうが・・・

まさに「怪物」です。

 

 

響は全体を通して、「天才」と「凡人」の対比を書いた物語でした。

イマイチパッとしない作家、自分を天才だと思い勘違い発言をする作家、かつて天才だったが落ちぶれた作家、天才さに心酔する編集者、天才にひれ伏せざる負えない編集長、天才に嫉妬する作家のたまごの同級生などなど

そして、そのすべての凡人は響の才能にひれ伏します。

この映画は、響というタイトルで響が主役のように思えますが実際は響を中心とした周りの人間の物語でした。

響はある意味「象徴」なんです。

どうしようもの「天才としての象徴」に周りの人間は否応なしに巻き込まれていきます。

その翻弄されっぷりがなかなか小気味よく最後まで面白く見させてもらえました。

 

 

響の強さは、人間誰しもが追い求めている究極の心の強さです。

しかし、その究極の強さを手に入れたら社会からは弾かれてしまうというリスクがあります。

世間体、人間関係、金、名誉、凡人はそれに振り回され疲弊して生きています。

そして、その苦しみを他人も共有していなければ我慢ならないんです。

しかし、いつかそうしていると人間の心は死んでしまうのではないかと思います。

響のレベルまでは到達できませんが「自分を貫き嫌われてもいいという気持ち」を持てるようしたいなと思いました。

 

闇島でした。

スポンサーリンク